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福井県神道青年会(ふくいけんしんとうせいねんかい)

交通安全祈願祭

 福井神道青年会の恒例行事であります交通安全祈願祭が、神青会員7名   (斎主=榊原 茂樹会長・以下神青会員奉仕)により、9月27日福井駅東周辺にある旭公民館(駐車場)で斎行されました。
 秋の交通安全県民運動に合わせて実施され、市交通安全協会旭分会、、福井警察署、旭地区自治連合会長また旭公民館長など、大勢のご参列を賜り厳粛に執り行われました。
 榊原 茂樹会長は挨拶の中で「交通事故にあってしまった人、またおこしてしまった人の気持ちは、立場はちがっていても共につらい思いをされます。」とも話されていました。
 我々もまた、一人のドライバーとして安全運転を心掛けていきたいと思います。

交通安全祈願祭_f0136366_89586.jpg


*なお、福井新聞 9月28日(金) 5面に掲載されておりますので、     是非ご覧下さい。

【渉外広報委員  杉坂 眞】
# by fukuishinsei | 2007-09-30 08:19

千歳飴

 千葉大学名誉教授の松下幸子氏によると、
文政8年(1825年)に刊行された柳亭種彦(りゅうていたねひこ)の『還魂紙料(かんこんしりょう)』に千歳飴の成り立ちが記されているそうです。
  
「元禄宝永のころ、江戸浅草に七兵衛といふ飴売あり。
 その飴の名を千年飴、また寿命糖ともいふ。
 今俗に長袋といふ飴に千歳飴と書くこと、かの七兵衛に起れり。」
 

 今から約300年前、「生類憐れみの令」で有名な5代将軍・徳川綱吉の頃、浅草寺の門前で飴売りをしていた七兵衛さんが、「千歳飴(せんざいあめ)」と書いた飴を売り出したのが始まり。
 
 現在は「千歳飴(ちとせあめ)」と読んでいますが、もともとは「千年飴(せんねんあめ)とか「千歳飴(せんざいあめ)」と言っていたんですね。
 飴は江戸時代の庶民の代表的なお菓子で、「金太郎飴」や「べっ甲飴」など種類も豊富にあったようです。
 また、誰が決めたのかは定かではありませんが、「千歳飴」の大きさは直径15mm以内・長さ1m以内と規定があるようで、細長い形で長寿願い、おめでたい紅白で着色し、袋には縁起の良い松竹梅が描かれています。

千歳飴_f0136366_2230519.jpg

         江戸時代の飴売り風景(左上の人物)

                               
『七五三 江戸で争ふ 肩車』・・・江戸時代の川柳です



【渉外広報委員  渡辺 英朗】
# by fukuishinsei | 2007-09-29 22:54 | それ知っとこ!

勉強会

9月27日福井県神社庁に於いて勉強会が開催されました(会員13名参加)。今回の勉強会では福井県総合政策部政策推進課 ふくいブランド推進室主事の山田恭央氏を講師に迎えて「福井を知り、福井をPRしょう!」をテーマに考福学・福井ブランド大使についてお教えいただきました。参加者一同、郷土を愛し福井の魅力をあらためて考えることを通じて、自信や誇りを持ち周りの人に発信出来るよう日々行動していこうと思いを新たにしました。
勉強会_f0136366_16361866.jpg

今回の勉強会は、先日行われた神青協夏期セミナーの内容について情報共有を図るためのセミナー参加者による報告会もあわせて行われました。
【渉外広報委員会 宮田 卓】
# by fukuishinsei | 2007-09-29 16:38

武生 総社大神宮の神輿

9月15日、総社大神宮(通称おそんじゃ)の秋祭りが行われました。
夜7時過ぎから境内から男姓約160人、女性約60人が神輿を担ぎ、約二時間かけて町を練り歩きました。
神輿の担ぎ手がなかなか集まらない昨今ですが、この総社大神宮の神輿の担ぎ手の人たちは自ら担ぎたいと神社に申し出て、担ぎ手の中でお金を出し合い毎年このように盛大にお祭りを盛り上げています。
これぞ本来のお祭りの賑わい!と思わせるいいお祭りでした。
武生 総社大神宮の神輿_f0136366_1156121.jpg

↑有名なギャル神輿の写真です
武生 総社大神宮の神輿_f0136366_11503437.jpg

↑男衆の担ぐ勇壮なお神輿
【渉外広報委員会  廣部】
# by fukuishinsei | 2007-09-25 11:23 | それ知っとこ!

伝統的な注連縄

 あるお社の注連縄をよく見ると、手作りの注連縄であった。一年に一度氏子の方々で、午前中10人、午後10人程度に分かれ、一日がかりで製作されるとのこと。

伝統的な注連縄_f0136366_14233828.jpg



 天照大神が、天の岩戸からお出になった後、岩戸に縄を張り再び中に戻らぬようにした。この縄は「尻久米縄」と古事記に記され、注連縄の始まりとされている。
 今でも、自分たちの手で作り伝えられ、神聖な場所として区画するために奉納された注連縄に感銘を受けた。昔ながらの共同作業がそこにはあった。

                                       【渉外広報委員会  杉坂 眞】
# by fukuishinsei | 2007-09-20 14:37